私は団地育ちだ。多摩ニュータウンという東京郊外にあるベッドタウンで団地を見るとわーっと昔の情景やら懐かしい気持ちが湧き上がってくる。大人になっていろんな環境の育ち方の人と出会ってくると、自分が団地育ちということが少しはづかしくなってくる。私の小さい頃の遊び場といえば管理が行き届いた公園、

坂を登る綺麗に整地されて整えられた整地。ととのえられた散歩道。人が線を引いて設計して区画した土地。芝は同じ高さに刈り取られて植物の種類が少ない。なんの疑いもなくそこに住んでなんの疑いもなくその環境を享受していた。受け入れる、順応するという特技が人間には備わっているのだがある程度整えられた時代に生まれてしまった世代にはそれに順応してしまうという不幸が一つあると思う。初めから何もない環境だったら自分が生み出せるという幸運がある。何か一つ大きな余計なフィルターを抱えてしまう。思い出、情緒が、整えられた環境に対して特別な場所として育ってしまうのだ。そう思うと余程の人でない限り住居はあると思うが、各々育った環境、街のフィルターはかかっている。そのフィルターがそのひとたらしめているひとつの要素となっていると思うと環境は非常に重要なその人を知るためのツールとなると思う。いい環境がいい人間を育てるゆう話ではなくて、人を形作っていく要素の一つということだ。人が住める環境ならばどんな場所でもいいのだ。劣悪な環境でもどうそれを捉えてどう関係を結ぶかで状況は変わる。環境が人に与える影響は全体の1%程だと思う。劣悪な環境でも思考する人は思考するし、行動する人は行動する。ハスの花のように。

ただ、情報を知る機会がなかったり、教育が受けられない環境の場合は少し話が違うと思う。

人間の作り上げた文明を虚構というまでは思わないがそこの中で作り上げられた社会規範に沿って悩んだり努力したりしていくことに対しはなんだか変だなとはずっと思っていた。自然第一で考えたらそれは紛れもない虚構なのだろう。でもそれは人間を物質と考えていないからこその考え方と思う。自然も人間も物質で等価だ。それぞれの生き物としての欲望に対して忠実に生きているだけだ。人間の発展も大きく見れば自然の摂理と感じる。思考し、比較し、発展させていく生き物なのだ、人間は。人間の発展も自然破壊も泥人形のように捻り出された自然の産物といえよう。

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